- 当館の周辺は戦国武将真田一族の発祥の地と知られています。真田幸村はじめ日本一のつわものと呼ばれた武士たちをしのぶ史跡めぐりをお楽しみ下さい。
天文10(1541)年甲斐の武田信虎によって一度は奪われた真田の地を、策略をめぐらし再び奪い返したのが謀将としてならした真田幸隆でした。真田一族が戦乱の世に名を馳せるようになったのは、その頃からでした。
信虎に代わり信濃攻略を再開したのが武田信玄です。幸隆はその信玄に仕え上州吾妻群の攻略や川中島の戦いでめきめきと頭角をあらわしましたが、共に天下統一を目指した信玄が天正元年(1573)年に急死すると、気落ちした幸隆も後を追うように翌年病没。
信玄亡き後の武田家の運命は傾きかけ、長篠の戦いで織田信長に大敗しました。幸隆の長男信綱、次男昌輝もこの戦いで討ち死にし、真田家は三男昌幸が継ぐ事になったのです。
真田家の当主となった昌幸は、天下統一の気運が高まる中、上田城を築くなどその勢力を広げ、徳川の大軍を二度も破るなど武略家として名声をあげていきました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦では昌幸と次男幸村が西軍に、長男信之が東軍に分かれて戦いました。その結果昌幸と幸村は敗軍の将となってしまい、二人は九度山に流されてしまいました。
慶長19(1614)年の大阪冬の陣に幸村・大助父子は豊臣家に招かれて勇躍して参加。真田丸という出城を築き押し寄せる徳川軍を知略によってことごとく撃破しました。翌年の夏の陣では決死の奮闘を見せ、3倍の兵力を誇る家康の本陣を突き崩すなどの活躍ぶりを示しましたが、幸村は力尽き華々しく戦死しました。
しかし、幸村の奮闘ぶりは豊臣びいきの大阪で語りぐさとなり、そこから様々な伝説が生まれました。
敵方に大いに恐れられたのが、戦場にはためく真田家の「六文銭」の軍旗でした。六文銭の家紋の由来は諸説ありますが、一般的には仏教の六道銭からきていると考えられています。六道銭とは、棺桶に入れられる六文の銭のことで、三途の川の渡し銭だと言われています。真田の兵士たちは常に六文銭、すなわち三途の川の渡し銭を身につけて、決死の覚悟で戦いに挑んでいたのです。
これを家紋にしたのは幸隆ですが、「不尺身命」を表す軍旗をはためかせ攻め込んでくる真田の軍勢を見て、敵の武将たちはおそらく肝を冷やしたに違いありません。
この城は真田山城、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などといわれるが、真田氏の本城にふさわしい規模の城であることから、真田町指定文化財史跡名では真田氏本城としており、旧菅平有料道路を、十林字から熊久保へ通ずる道路が横切った北側の、尾根の突端にある。
地元では御屋敷とよび、小字も御屋敷となっている。真田氏の居館は、角間・甲石等にもあったとされるが、遺構の現存しているものはこのお屋敷以外になく、中世豪族の館跡として貴重である。
武具甲冑など豊富な資料で真田氏を紹介しています。真田氏を基礎から知りたい人にはおすすめの歴史館です。真田氏に関係する史跡の紹介や、模型による史跡の解説も行っています。真田三代の活躍の歴史も一目でわかるようになっています。
長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていましたが、天文16年(1547年)幸隆が開基となり、上州安中の長源寺から晃運和尚を開山として開いた寺です。その後昌幸によって整備充実され、真田氏の菩提寺となりました。後に信之が松代に移った際、松代に長国寺を建立しました。
当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後、昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。