当岩屋館の周囲には岩屋観音火山群の溶岩や凝灰角礫岩の地域が角間川に侵食され奇岩怪石、奇峰が空高くそびえたっています。その奇観には鬼の門、天狗の欄干、百間長屋など様々なニックネームが・・・。鉄くさりをたよりに遊歩道を散策すれば、心地よい信濃の風が汗を拭ってくれます。
岩屋観音の創建は大同元年(806)、この洞窟を棲家にしていた巨魁毘邪王が 鬼達を率いて村人に悪行の限りを尽くしていました。朝廷は四道将軍である坂上 田村麻呂を派遣しましたが、妖術を使う毘邪王を討つこと難しく苦戦を強いられました。そこで田村麻呂が隣村に安置され霊験が高いと云われる馬頭観音(現在の実相院)に、祈願したところ毘邪王の妖術を封じようやく討伐することが出来ました。(毘邪王の亡骸は実相院の境内に埋められたと伝えられています。)田村麻呂は感謝の意とこの地の平穏ためから堂宇を建立し観音像を安置したと伝えられています。洞窟は横50m、高さ5m、奥行き2~5m、小さいものは縄文時代は住居として利用されたとされています。観音堂はその洞窟を囲むように建てられ、外壁は建具によって遮られ、内部には小さな仏壇があり観音像と思われる石仏が安置されています。岩屋観音は昭和54年(1979)に上田市(旧真田町)指定名勝に指定されています。
真田幸村が狩の際に喉を潤し、あまりの美味さに茶立ての水に使われたという 「一っぱい清水」。角間渓谷の道路沿いにあります。
猿飛佐助が渓谷の大岩を猿のごとく飛び移って、早業の修行をしました。近くには佐助幸村渇見の地があります。ここは猿飛佐助と真田幸村がはじめて出会った場所です。佐助の人間離れした身体能力に驚き、その場で家臣になるよう導いたといわれています。
真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけ ての武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のことです。歴史的な由来を持つ人物もいます。
基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎 の10人です。